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「店長物語その14」

 
       
    いつもこのコーナーをご覧いただきましてありがとうございます。ごく一部の方々に大好評いただいております。私の中学校時代のお話をもう少しします。 中学校時代が、1番楽しい時代かも知れません。まだ、社会も自分も解っていません。大きく夢が見れます。心も身体も大人への階段を登って行く頃です。単純に考えても楽しかったです。中学三年の秋頃までは、本当、楽しかったです。それまでは、高校受験を楽天的に考えていました。どこか私立の附属高校に入れればいいなと思っていました。駄目なら近場の公立高校でいいやと思っていました。それまで、両親もあまりうるさい事は言いませんでした。もともと私は、幼い頃からあまり期待されていた子供ではありませんでしたから。中学三年の夏休みまでは、クラブ活動に打ち込んでいました。毎日、汗と泥にまみれてグランドを走り回っていました。今と違って、当時は割りとスタイル良かったんですよ!秋の体育祭、学園祭までは、本当に楽しかったです。 その後です。急に父親がうるさくなりました。成績の事とかうるさくなりました。父親は、亡くなるまでうるさかったです。かなり自分勝手な考えを持っていました。今考えても納得のいかない事もあります。当時、父親から言われた事があります。「お前に何か特別な能力があれば好きな事をやっていい。俺が見る限りそれはない。どうしたらいいか?いい会社に入った方がいい。いい会社に入るにはどうしたらいいか?一流大学に入らなければならない。一流大学に入るには、一流高校に入らなければならない。もっと勉強しろ!」と理屈責めを言われました。当時、私は将来カメラマンになりたいと思っていました。報道カメラマンじゃないですよ!グラビアを撮るカメラマンです。写真学校に行ってとか考えていました。父親にいったら一笑に付されました。お前にはなれないと! 前漢の時代、一人の宦官が述べた史書があります。司馬遷の「史記」です。名文ばかりなんですよね!その中に「鶏口牛後」というのがあります。大きな物の後ろに着いているのなら小さな物でもトップにいた方がいいと言う事です。父親に、お前は大きな会社に入っての方がいいと言われました。父親は、大企業の社員ではありませんでした。社員数十人の会社の専務でした。自分とは逆の人生を歩かせたかったんでしょう。そして、私の能力のなさを見抜いていたんですね!親の期待を裏切って今がある。理由なき結果はない。そう思っています。現在、亡き両親にごめんなさい。そんな所です。でも、まだまだです。これからです。最期の時、石田三成だって、柿を出されたら柿は身体を冷やすから良くないと言って口にしなかったそうです。そして、そのまま刑場の露と消えました。私は、そうゆう体制に影響のない、まったく意味のないこだわり大好きです。そうはならないですよ!私はと思っています。夢があります。偉い人になって座右の銘はと聞かれたら答えるのです。「酒池肉林」と! 中学校の受験期、あまり楽しくなかったですね。たまたま、なんとか明治大学の附属に入れました。明大中野高校に入りました。もし、違う高校に進学していたらここで働いている事はなかったです。その話は、もう少ししてからにします。次回もお楽しみに(^-^)。
 
         

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